天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。されば天より人を生ずるには、萬人は萬人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、萬物の靈たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの物を資(と)り、以て衣食住の用を達し、自由自在、互に人の妨をなさずして各安樂に此世を渡らしめ給ふの趣意なり。されども今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有樣雲と坭(どろ)との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり。實語敎に、人學ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は學ぶと學ばざるとに由て出來るものなり。
福澤諭吉「学問のすすめ」 1872年
長らく封建制のもとで国家が運営された日本では、マルクスが「資本論」において資本主義のもたらす貧富の差を批判していた時期、福澤諭吉が「学問のすすめ」において、知識が貧富の差をもたらすという主張をしていました。とても尊い思想ではありますが、経済学という分野から見れば、学問としての成熟度に大きな相違があったことは否めません。マルクスの思想が世に広く知られるまでに相当の時間がかかったことを差し引いても。
実際、周囲を観察してみますと、知識が貧富の差の源泉だという主張は受け入れ難い。いい大学を修了すると、高い給料をもらえる可能性が高まるという、日本が学歴社会であることは事実でしょうが、それはあくまでフロー(1年間で稼ぐお金の量)の話。お金持ちとはストック(現在持っているお金の量)が重要であって、資本主義のもとでは、知識の多寡ではなく、ストックの多寡がフローの多寡に影響を与えているという研究が多い。最近では、ベストセラーになったトマ・ピケティ氏の研究成果がその例として挙げられます。
When the rate of return on capital exceeds the rate of growth of output and income, as it did in the nineteenth century and seems quite likely to do again in the twenty- first, capitalism automatically generates arbitrary and unsustainable inequalities that radically undermine the meritocratic values on which democratic societies are based.
by Thomas Piketty in “Capital in the Twenty-First Century” (2014)
資本主義がもたらすこの(不都合な?)事実を是とするか否かは、政治の大きな課題になります。僕自身はといえば、少しでもこの資本主義の恩恵に預かるべく、小さな財産を元手に投資を続けていきます。