平和を考える日

たった4年ほどの間に3百万人の日本人が犠牲となった太平洋戦争終結から数えて75年目の夏です。平和しか知らない世代ですが、年齢を重ねるとともに平和の尊さを実感する経験が積みあがってきていて、この節目に平和について考えていることをいくつか残しておこうと思いました。

まず、とても印象深い平成天皇のお言葉から。平成天皇の父親は、太平洋戦争を引き起こし、そして玉音放送で戦争を終結させた昭和天皇です。父親の戦争責任をどのように表現するか、大いに悩ましい立場であろうと察します。平成天皇は、よく「今の平和が、3百万人の犠牲の上にある」というスピーチをされていました。そして、そうした犠牲者の霊を弔うべく、国内外を問わず慰霊の旅を続けていらっしゃいました。犠牲者の中には当然ながら軍人もいますから、場所によっては、必ずしも歓迎されないところもあっただろうと思います。そういう声に決して怯むことなく、犠牲者の慰霊という儀式を通じて平和の尊さ、人命の尊さを訴え続けている姿勢に、何度となく感銘を覚えました。

次に、ドイツで受けた衝撃から。初めてベルリンを訪れたとき、ベルリンの壁をはじめとした第二次大戦の名残りを見て回りました。戦争博物館だったと思いますが、まず最初に見た展示がワルシャワ空襲後の空撮映像でした。街全体が徹底的に破壊されています。日本で行われている戦争の展示と悲惨さという意味では同じですが、ドイツがどういった攻撃を受けたかということではなく、ドイツがいかに他国を攻撃したかということが展示のメインテーマです。ヒトラーが政治家として名を挙げたミュンヘンには、ナチスが初期に建設したダッハウという強制収容所があります。ここでもドイツ人による、障害者やユダヤ人に対する数々の非道な行いが展示されていました。戦争というのは、どちらが正義でどちらが悪かというより、対立するイデオロギーが争いの源泉です。ナチスという行き過ぎたファシズムに対する反省なのか、戦敗国の謝罪とはこういうものなのか、またはその両方なのか、判断は難しいですが、事実として日本で行われる一般的な展示とテーマが異なります。ドイツには、このような展示方針に反対する勢力があります。そういった勢力が権力を握るようになったとき、展示される内容が変わっていくのでしょうか。そして日本は、外国から見れば、戦争責任を軽視する政権が権力を握っているのでしょうか。少なくとも、ドイツの展示は、若かりし自分の目を大きく開かせたものでした。

最後に、最近の政治に関して。戦争がイデオロギーの対立から始まっていると書きましたが、第二次世界大戦は、ファシズムと民主主義、共産主義といった異なるイデオロギーの対立が源泉となり、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、鬱積していた各国の対立関係が表面化しました。太平洋戦争は、帝国主義というイデオロギーの中で、時間をかけて経済力で覇権を確立してきた欧米列強と、短期間のうちに軍事力で覇権を確立した、軍国主義とも呼ばれる日本との間の確執が争いの源泉となりました。

現在、中国の習近平支配の共産党政権は、共産主義の偉大さを世界に強烈にアピールしています。民主主義からみれば人権軽視ということになるのでしょうが、共産主義が優れていると思っている中国人は、それこそ星の数ほどいます。ロシアもプーチンの長期政権が継続しており、共産主義の恩恵を感じている国民は、外から見るより遥かに多いと思います。一方、民主主義のお手本であるはずの米国のトランプ政権は、民主主義というイデオロギーのもう一段下にあるイデオロギーの対立(例えば、富裕層と労働者層、白人と黒人など)を煽いで、自らの再選のために国民を分断するという愚策を繰り返しています。ベルリンの壁崩壊から30年あまりで、共産主義と民主主義の対立が再び深まっています。何かがきっかけになってイデオロギーの対立が戦争に発展してもおかしくありません。

 

民主主義が機能して、人権が重視され、経済的にもそこそこ安定しているという状況が平和の恩恵だとすれば、やはり平和を失いたくありません。ところが、その願望は、世界各国の微妙なパワーバランスの上に成り立つはかないものであることを改めて認識した「平和を考える日」になりました。

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